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●No,54
「無差別殺人犯」にみる共通性
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また無差別殺人事件が起きました。
以前「秋葉原通り魔事件」のことに触れたことがありましたが、今回も私には似た印象を犯人から受けました。 彼らのことを一言で言うと「甘ったれ」です。 あ、すみません「甘ったれ」の後に「ガキ」を入れ忘れました。m( _ _ )m 「甘ったれたガキ」・・・・です。 親に相談に乗ってもらえなかった? だからって、罪もないまったく無関係な人を殺してまで、親の気を引きたいのか? 「いったい幾つなの?」と聞きたくなってしまいます。 確かに多くの人たちが、というか全ての人がそうだと思うのですが、生まれてから大人になるまでの間に「愛」を欲して来ている筈です。 そして、親ではなくても、誰かしらからは必ずと言っていいほど「愛」を貰って来たでしょう。 どんな形にせよ、誰かからは「愛を貰って来た記憶」があるのです。 「いや、わたしには全くそんな記憶はない」と仰る人がいたなら申し上げます。 「では、あなたは、たったの一度も感謝をしたこともなく生きて来たのですね」と。 だってそうでしょ? 今あるあなたは何故存在できているのですか? 自分で生きているとでも言いたいのですか? 何かを食べるためにはお金が必要です。そのためには職がなければなりません。それを提供している人に感謝もないのですか? それともお互い様だからということですか? もしそうなら、「働いてやっている」といった傲慢な気持ちが少なくともありますね。 いや、百歩譲って、一人で生きているということを認めるとしても、まさか一人で育ったなんてアホなことは言わないですよね? 私は何も薄っぺらな道徳論を述べようとしているわけではありません。 ほんの小さなことでも「与えてもらった喜び」を「発見」出来た人は、それだけ「感謝の心」で生きることが出来て、その分「幸福感」が強い筈なんです。 「感情のチェック」をし続けていると、自分の自我(エゴ)の強さに嫌気がさして来ます。 そして同時に、周りの人たちが暖かく見えてくることがよくあります。 もちろん、これは自我を通して周囲の人をフィルターを掛けて見ていたということが原因だからなのです。 彼らがもし、ほんのひとつの感謝でも出来ていたら、あのような悲惨なことにはならなかったかもしれません。 しかし、ここで犯人の彼らだけの話では終わらせてはいけません。 「バカな親たち」です。 確かに事件を起こしたのは子供であって、事件の責任は「もういい年をした子供」にあります。 しかし。 それだけではかたずけられないでしょう! そもそも彼らの親は、「子供を愛してあげていたのか?」 子供の頃に充分に親からの愛を受けずに育った人は、基本的に「愛すること」が下手です。 というか、恐らくどうしていいか分からないのでしょう。 「愛された」という「記憶」がないから。 親は「愛してあげた」と言い訳するかもしれませんが・・・。 本当に愛してあげていたのなら、子供は「感じていた筈」です。 厳しさも愛の表現としてはありますが、厳しいだけでは愛ではありません。 しかも、小さな子供であれば、厳しさなど通用する筈がありません。 先日、池袋駅のホームで小さな女の子(たぶん3〜4歳位)が24〜5歳位の母親に、もの凄く怒鳴られているのを見かけました。 その母親は子供に「ついて来ないで!ママについて来ないでね!」と、とてもしつこくヒステリックに言っていたのです。もちろん子供は泣いてました。 見ていてホントに情けなくなりました。 「あんた親でしょ?子供と同じ土俵に上がって何むきになっているの?」と。 今は子供の育て方を知らない親が多いと言われています。 それは、学校任せにしていた親に育てられた子供が親になっているからだという話を聞いたことがあります。 原因のひとつとしては、それもあるでしょう。 ま、何にせよ、子供に関心のない、また、家族という「小さな社会」に興味を持たず、仮に持ったとしても、自分の所有物かなにかのように思っている親が存在する限り、悲惨な事件が皆無になることはないでしょう。 自分の子を「出来の悪い子供」と嘆く前に 自分を「出来の悪い親」であることをまず反省し、我が子から「貰ったもの」はなかったかを考え、ひとつでも多く発見して欲しいものです。 我が子が生まれた時、幸せに包まれませんでしたか? それを思い出すことが出来たなら、既にあなたは感謝を知ったことになるでしょう。 |
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●No,53
「感情のチェック」で陥りがちな勘違い(22日加筆しました)
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前回、「感情のチェック」で、人によっては陥ることがある「錯覚」について述べましたが、今回は私自身も経験した「感情のチェック」が何度かうまくいく内に陥ったことのある「勘違い」について述べていきます。
そもそも「感情のチェック」をするということは、揺れる感情を放って置きたくないと思っているので、「感情的になっている状態」が嫌いな筈です。 そして、出来るだけ早く「感情が安定して欲しい」と願っているのです。 だからこそチェックを続ける習慣を身に付けることが大切であるにも関わらず、「感情のチェック」が何度かうまくいくと、次第に「感情的にならないようにしたい」といった気持ちが強くなり、反って感情が揺れるような状況に陥った時、或いは陥りそうな時に過敏に反応してしまうことがあるのです。 「感情のチェック」をし続けることで、いつかは必ず「安定」を得ることは出来ます。 だからこそ、寧ろ「感情的な出来事」があることは喜ぶべきことなのです。 なぜか? それは、「感情的になる」こと自体の中に、自分の「自我(による欲求)」を発見することになる訳であり、これはとても時間をかけて続けていくことなのです。 この時間をかけて「感情のチェック」を習慣にしていくことで人は成長するのです。 人が成長するということは、階段を一段一段確実にあがっていくことであり、成長という名の階段を上がることを噛締めながら成長の喜びを感じるものなのです。 ですから、「むやみに」感情の安定を求める必要はないのです。 「感情のチェック」をし続けてさえいれば、必ず感情は安定するからです。 とにかく「安定させたい」といった「感情の安定」が「欲しくて欲しくてたまらない」状態は理解できますが、だからこそ「感情的な出来事」を淡々と受け止めて頂きたいのです。 でなければ、「感情のチェック」そのものが出来なくなってしまいます。 「感情のチェック」は、日常の「楽しみ」になる位にまで習慣化できます。 だから、「感情のチェック」をしなくてすむようになりたいなどとは考えてはいけません。 ていうか、有り得ません。 「感情のチェック」をしない日なんて・・・。 「感情のチェック」ほど楽しいことはないんですよ。 積極的に、「感情のチェック」という習慣を楽しんでいきましょう!! |
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●No,51
「感情のチェック」で陥る錯覚
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「感情のチェック」を始めると、何度か「感情が治まる」といった体験を誰もがします。
ま、当然と言えば当然ですが・・・。 すると、何かの「資格」でも取ったような気持ちになり、「特別な人間」にでもなったかのように感じることがあります。 と言っても誰もがそうなる訳ではありませんが・・・。 確かに、「感情のチェック」によって、揺れる自分の感情を静めるという経験は、単に感情を抑えることと違って、「感情そのもの」の原因を発見することにより、「結果として」静まっていくので、まるで「湯上りのような気分」のようにサッパリとした気持ちになります。 これは1度でも経験した人なら分かります。 ホントに「湯上り気分」なんです。 しかし、こんな人間としてはあたりまえのことが何回か出来ただけで、自分が今までと違って「凄く」なったような錯覚に陥るのは、それこそ「感情のチェック」で見えてくる「自我」が原因なのです。 つまり、成長した自分を客観的に見れなくなってきた証拠だと言っても過言ではないでしょう。 自分を客観視できなくなってきたということは、つまり「感情のチェック」はストップしている筈です。 「感情のチェック」は、続けていく内に自分の心の奥にあって、今までは気付けなかった「欲求」(或いは「自我」による「欲求」)が見えてくるのですが、「成長した自分」を冷静に見つめ、素直に誉めてあげるなら問題はないでしょうが、「慢心」した場合は、「冷静さを欠いた」状態なので、客観視を前提とした「感情のチェック」が進められる筈がありません。 つまり、「感情のチェック」が出来てる自分を凄いと思った時点で、今度は「プラスの感情のチェック」をすればいい訳です。 こんな風に続けていく内に自然と「感情のチェック」は習慣となる筈です。 |


minorin(08/03)
瀧(01/09)
sayuri(01/07)