|
●No,50
人間関係に於ける「距離」の取り方
|
|
前回、「距離」を取ることの大切さについて触れましたが、今回はもう少し突っ込んだ話をしたいと思います。
人間同士が調和していくためには、適度な「距離」が必要です。 しかし、中には「距離」を無視して土足でズカズカ上がってくる人もいます。 「親しき仲にも礼儀あり」という言葉がありますが、やはり人間関係のバランスを適度に保つには「距離感」を持つことです。 そもそも「距離感」を持つことが必要だと述べている理由は、人間の一人一人が、「自分という個性」を知り、他の人たちと調和し、平和な社会を創るために重要だからです。 かと言って、決して「みんなで仲良しクラブ」のような「同じような価値観」を持っているかのような社会を望んでいるわけではありません。 あくまでも「自分という個性」は重要なのです。 私の言う「自分という個性」とは、「自我から来る欲求」を知っている客観視出来る自分のことであり、それはつまり「感情の揺れ」の源である「欲求」を知っていて、その欲求を出している「自我」とは、自分を主張したり、自分を守りたいと感じている自分のことを指しているのです。 しかし、「自我から来る欲求」が原因で感情が揺れることに充分対応できていない(つまり、感情のチェックが出来ていない)人たちは、まだまだ「自分」という個性のことを充分理解出来ていないので、どうしても人間関係でぶつかり合ってしまいます。 これは、「自我(からの欲求)」が理解出来ていないからです。 つまり、自己主張であり、客観視出来ていない表面的な自分の意見をお互いに押し付けているからぶつかり合うのです。 この人間関係での問題の中でも、人とぶつかって自分が傷付きたくないが故に、他の人と意見を合わせてしまう場合があります。 これも結局は、「自分を守りたい」という(自我から来る)欲求が働いている訳で、それに気付かず「自分は相手に合わせてあげている」といった勘違いをしているケースもあります。 或いは、この逆で、自分が傷付きたくないから、攻撃するといったタイプの人もいます。 これはこれでやはり、自分を守っていることに気付かず、「自分が正しいから強く言っている」程度にしか思っていない場合があるのです。 これらのケースでも分かるように、人間関係に於いて、プラスの感情であろうとマイナスの感情であろうと、「感情の動き」が見られた場合は必ずチェックし、「自分の中にどんな欲求があったから感情が動いたのか」を発見することにより、「自分が周りの人たちに対して何を求めているのか」を理解できるようになります。 そして、発見できた「自我から来る欲求」を持っている自分を客観視することによって、自然と「周囲の人との距離の取り方」が見えてくるのです。 何故なら、自分を客観視出来るということは、自分と他者を客観視出来ていることになり、周囲にいる人たちと自分の関係を客観視しているということだからです。 それはつまり、自分の周囲にいる一人一人が、自分にとってどういった存在なのかが分かるようになるからということなのです。 |
|
●No,49
「正(プラス)の感情のチェック」で見えてくる「距離」とは
|
|
前回、「正(プラス)の感情」もチェックする必要があるという話をしました。
もちろん、チェックしなければならない理由は「自我」の存在が原因なので、「私は無我である」と言い切れる人は、特にする必要はないでしょう。 そして今回、人間は「喜びを求める」といった欲求を持っているものですが、では「正(プラス)の感情のチェック」が何故必要なのか、そして「正(プラス)の感情のチェック」によってどうなるのかをお話させて頂きます。 よく、幼稚園の送迎バスを待っているお母さん達が立ち話をしている光景を見かけます。 他にも、敷地内に公園などがある大きなマンションなどでは、子供たちの下校時刻頃になると、あちらこちらでお母さんたちのグループができており、楽しそうに立ち話をして盛り上がっています。 こういった光景を見て、私は思います。 「本当に楽しくて笑っているのだろうか?」 「あの4人のグループの中で一人位は、他の3人に話を合わせてはいないだろうか?」 こんな風に思う私を「捻くれている」などとは思わないで下さい。 それなりの理由があるのです。 では、それなりの理由を述べます。 本当に仲のいい友達同士で飲んでいる時には、結構いろんな話をして盛り上がるでしょう。しかも、お互い何でも言い合っても大丈夫だったりします。 しかし! もし、仕事関係の人と飲みに言った場合はどうですか? ま、気を使いますよね? かと言って必ずしもつまらないとも限りません。 私は経験あるのですが、仕事関係の人たちと飲みに行った場合、楽しくは飲めます。 気を使って楽しめないということは決してありません。 しかし、心底楽しいかというと、そうでもありません。 つまり、波長が合う友達と飲んでいる訳ではないから、ある程度人間関係にも距離が必要であり、その距離を保ちながらの飲み会ということになります。 だから、距離が友達のように近ければそれだけ話題も合うし考え方も近かったりして盛り上がれるのですが、仕事仲間となるとそうはいかず、ある程度の距離を取らなければ人間関係におけるバランスを崩してしまいます。 実は、この「距離の取り方」が分かれば、どんな人たち(と言っても限界はありますが)とでも、それなりに楽しく飲み、盛り上がることは可能なのです。 私の言う「気を使う」はストレスにはなり難く、寧ろ人間関係に於ける「距離感」を掴むことが出来るので、それなりに楽しむことが出来るという訳です。 「距離感」とは、他者と自分の関係(或いは位置付け)に於ける、他者に自分のことをどのように思ってもらっても気にしない、あくまでも他者と一番居やすい(居心地のいい)と感じられる位置関係(距離)を意味します。 で、話は「お母さんたちのグループ」に戻ります。 今の私の経験談でも分かるように、もし距離が分かっていれば他のお母さんたちとはうまくいくでしょう。 というか、それなりに楽しい時を過ごすことは出来るでしょう。 しかし、もし「本当は、家に帰りたいのだけれど、あの人に声を掛けられたから、話を聞かなきゃならないなあ。しかも、相槌を打って終わりだし。面倒なんだけど、付き合わないと、ここじゃ住み難くなるし。」などと、合わせなければならなくなり、いつも苦痛を味わっているのにも関わらず、そんな自分をごまかし、一緒になって盛り上がっているうちに「本当はこの人たちと友達になりたかったんだ。」と自分に嘘をつき始め、個性を殺している、なんてことはありませんか? と言いたいのです。 これでもまだ、「おまえって捻くれているな。」 と思う人がいるかも知れないので更に付け加えます。 例えばクラスで人気者の誰かと友達でいたいと思ったときに、純粋に友達になりたいという気持ちからではなく、人気者の友達として存在したいといった欲求を理解できるでしょうか? もしそれで、その人気者と友達になることが出来、ワイワイ楽しく過ごせたとして、嬉しいといったプラスの感情は生まれるでしょうが、果たして純粋なものだと思いますか? つまり、友達との調和している状態をたのしんだり、その友達が楽しんでいることが自分の喜びだったりした場合なら、そのプラス(喜び)の感情は問題ないでしょうが、もし、自分が、「今、自分はクラスの人気者と一緒にいるんだ。」といった自分の状況、状態をただ喜んでいるとしたら、その感情は、例え「喜び」であったとしても「感情のチェック」によって、「自我からの欲求」を見つける必要があるということなのです。 「負(マイナス)の感情」であれば、人は大抵「不快」に感じ、その感情を取り除きたい欲求が生まれます。 しかし、「正(プラス)の感情」の場合、「喜び」などの快感を味わうこととなり「感情のチェックの必要性」を感じにくくなります。 だからこそ、「プラスの感情」が動いた時にもチェックをすることにより、更に「自分の欲求」「心の傾向性」が見えてくるのです。 そして、「距離感」が分かるようになります。 チェックポイントは、「プラスの感情」でも、「自我から来る欲求」が原因の感情が動いた場合、「気持ちの浮つき」を感じると思います。 ・・・う〜ん、これだけじゃ、難しいですかね・・・。 |
|
●No,48
「正(プラス)の感情」もチェックしなければならない訳
|
|
「感情のチェック」は、決して「負(マイナス)の感情」だけでなく「正(プラス)の感情」もチェック対象だと以前述べたことがありますが、今回「正の感情」のチェックの必要性について述べたいと思います。
以前、仕事先で私の仕事振りについて褒められた時のことです。 当時私は、その仕事場(工場勤め)で3ヶ月目に入ったところでした。 その頃から工場は大変忙しくなっており、一人の仕事能力によって終業時間が左右される状況にあったのです。 ある時、現場の責任者の人から「あなたの仕事が速くなったお蔭で、すごく助かってるよ。あなたがいなかったらこんな時間に終わらないよ。」といった内容のことを言われました。 私としては当然嬉しい言葉であり、素直に喜べばそれで済むような内容です。 しかし、その喜びの感情は、放って置いてはいけないものだったのです。 つまり、チェック対象の感情である「自我が原因の感情」だったからです。 「褒められたんだから、喜ぶのは当然でしょ? それのどこが悪いの?」 と、普通は思うでしょうが、「感情のチェック」をし続けることで「自我」を常に意識している私としては、気にならざるを得ないし、自然とチェックしてしまっていました。 こんなことを言うと「感情のチェック」って、喜ぶことも出来ないの? と誤解されてしまいそうですが、そういうことではないのです。 私がこの時にチェックした「正(プラス)の感情」とは、先ほども述べましたが、明らかに「自我の欲求を満たした結果」としての感情が混じっていたのです。 そうです。厳密に言うと「混じっていた」のであって、「自我のみ」が満たされた訳ではありませんでした。 つまり、「役に立てて良かった」という理由で「素直に喜んだ自分」も、いたことはいたのです。 しかし、その感情に混じって「もっと褒めて欲しい」といった欲求が混じっていたということだったのです。 この欲求こそが「自我」からのものであり、以前述べたように「自我」とは、平たく言えば「自分のことばっかり考えている自分」です。 そんな「自我」を発見し受け入れることで、自我が原因として出てきた感情は落ち着きました。 そして同時に、多くの人がこういったケースの時に揺れる感情(敢えて揺れる感情と言いますが)を流してしまっているのだなと感じました。 そして、「正(プラス)の感情」の場合、「疑問」を投げかけるどころか、むしろ子供のように調子に乗ってしまう場合もあるのではないでしょうか? 私の場合、この時まさに「感情が揺れた」と感じたのです。 それは「負(マイナス)の感情」と同じ感触でした。 確かに周りで起こっていることは違います。 しかし、私の内部で起きているものの中に「負(マイナス)の感情」の時のような「揺れ」が混じっているのを感じ、チェックしたのです。 つまり、「疑問の投げかけ」をしてみたのです。 「確かに、褒められて嬉しいとは思っている。でも、何か変だな。何が変なんだ? 心の奥で欲求が強くなっているのを感じる。この欲求は? どうやら、この欲求は執着になっていく欲求と似ているな。ということは自我からの欲求が動き出したんだ。つまり、自我がまだ眠っていなかった訳で、刺激してしまったんだ。それで、褒められたことで、もっと褒めて欲しいという気持ちが出てきたんだ。」 といった風に、「自我」が原因である「欲求」が動いたことを「感情の揺れ」と感じたという訳です。 もし、こういった自我が消え「無我」であるなら、褒められたとしても「ああ、役に立ててよかった」と単純に喜ぶだけで、何かが引っかかるということは有り得ないのです。 そして更に、「正(プラス)の感情」も自我を満足させるだけの感情であったならチェックした方がいい理由のひとつとしてもうひとつ挙げられます。 それは、もし「嬉しい」と思ったとしても、「自我」が原因としての「正(プラス)の感情」であれば、「自我からの欲求」が強くなるので、冷静さが欠け(理性が鈍り)その時に行なっている仕事などに悪影響がでる可能性が高くなるということです。 先程述べた「調子に乗ってしまう場合」が、その典型でしょう。 例え「負(マイナス)の感情」ではなかったとしても、「自我からの欲求」が原因であれば、それは「負(マイナス)の感情」と同じ「揺れる感情」の部類に入る訳で、つまりそれは理性の対極にあるものであり、当然のことながら「感情のチェック」の対象となるのです。 |
|
●No,47
「秋葉原通り魔事件」にみる感情人間の悲劇
|
|
前回は、数多くの疑問を解き続けることが出来ることが、結果的に一流を生み出しているのだという話をしました。
そして、「疑問を持ち、そして解き続ける意思と実行」が「役者の質」を決めるということだと述べました。 しかし疑問を持つことが大切なのは、決して「役者に限ったことではない」とも言えるでしょう。 なぜなら、役者は役を演じるために疑問を投げかけ、そしてそれをひとつひとつクリアしていき、最後にキャラクターという「普段の自分とは別の価値観を持った自分」を見付けることで多様な価値観を結果的に味わうことは出来ます。 しかし、役者以外の人間も多様な価値観を持つことが出来たなら、つまり、自分以外の視点に立つ(普段の自分以外の人物になる)ことが出来たなら、もう少し世の中も調和されていく筈だと思うからです。 少なくとも、先日秋葉原で起きたような事件は起きなくなるでしょう。 あの犯人が携帯サイトに書き込んだと思われる内容を信じるなら、そして彼とその両親のことを知る人たちが真実を述べているとするなら、犯人の行動に向かわせた「感情」は理解できます。 もちろん共感できる筈はありません。 あくまでも「理解」は出来るという事です。 それは、彼の感情の流れが分かるということであって、私でもそうするという意味ではありません。 彼の家庭環境や学校での状態、そして仕事場での態度などから見えてくることを一言で申し上げるなら、「愛の渇望」です。 己を律するという言葉を全く知らない人間の悲しさを感じます。 確かに教育方針の間違いはあったでしょう。 しかし、それは誰でも大人になっていくにつれ、自立していく過程で親からの影響から離れることは出来ることであり、感情を押えることであれば普通の人でもやっていることです。 それを環境や人のせいにするなど言語道断であり、自分を見つめることなど全く出来なかった、いや、しようとすらしていなかった筈です。 だから、自分のことを客観的に見ることなど出来る筈もない訳で、そうなると当然他人のことなど更に理解できるはずもありません。 彼の方から他者に対して歩み寄って理解しようなどとは思っていなかったでしょう。 つまり、多様な価値観など理解出来る筈もないということです。 「多様な価値観」を持つことが出来るなら、明らかに人生は変わります。 違って見えてくるのです。 では、多様な価値観を持つ為にどうすればいいのか? そのために「感情のチェック」があるのです。 前々回も述べましたように、「感情のチェック」は「自分への疑問の投げかけ」です。 もし、自らの感情をチェックすることが人間としての常識であり、全ての人が程度の差こそあれ、行なっていたなら、あのような痛ましい事件は間違いなく起こらなかったはずです。 私がお薦めしている、自分(の感情)を見つめること、チェックすることを全ての人がしたなら、この地球上から「感情人間による悲劇」など消え去ることでしょう。 |
|
●No,46
「一流の役者」が持つ疑問
|
|
前回、「疑問を感じる」ということが大切であると述べました。
私が若い頃に演技の勉強をしていた頃、つまり「メソード演技」を学んでいた頃、アル・パチーノやダスティン・ホフマン、ロバート・デ・ニーロなどの俳優達が何故あんな素晴らしい演技をすることが出来るのかが分かりませんでした。 「素晴らしい演技の身に付け方」とは如何なる方法か? これが、若い頃の私の最大の「疑問」でした。 そして、その方法の鍵となるのが「疑問を持つこと」だったのです。 メソード演技を学んでいた時、アクターズ・スタジオでアル・パチーノが何度も同じシーンを繰り返し演じていた話を聞いたことがあります。 アル・パチーノは、キャラクターが実感出来るまで、そして納得できるまで次のキャラクター、或いはシーンを演じることなど考えられなかったのではないでしょうか。 つまり、キャラクターに関する「疑問」を全て消し去り、「本当に知った」と言い切れるまでは・・・。 彼が1979年に主演した映画「ジャスティス」の中で、納得するまで自分の演技にOKを出さなかったシーンがあり、相手役などテイクの度毎にサンドウィッチを食べなければならないので、バケツに吐きながら演じていたそうです。 「一流の役者」が疑問を持ち、それを解決していくことで質の高い演技を観る事が出来る訳です。 では、一流の役者が持つ「疑問」とは何か? それはキャラクターについての疑問である筈です。 つまり、ある場面でキャラクターが考えていることや感じていること、していることをそのキャラクターの視点で捉えられるまで続く疑問です。 こういった数多くの疑問を解き続けることが出来ることが、結果的に一流を生み出しているのだと思うのです。 言い換えるなら、「疑問を持ち、そして解き続ける意思と実行」が「役者の質」を決めるということになります。 |
|
●No,45
全ては「疑問」から始まる
|
|
今回、「感情のチェック」を進める上で、問題となっていることに触れたいと思います。
私の行なっているワークショップ(俳優養成塾)では、よく「感情のチェック」の話をします。 「感情のチェック」をすることで自分自身の「欲求」が見えてきて、役作りが進むという理由があるからですが、しかしそんな簡単に片付けてしまえる程「感情のチェック」は簡単にはいかないようです。 感情のチェックが思うように進まない理由のひとつに「欲求」に従うことを諦めてしまうことが挙げられます。 「感情のチェック」では、その「動機」である「揺れる感情を取り除きたい」という「欲求」を感じることが前提なのですが、しかし考えること自体が面倒であったり、いくら考えても「最終的に」どんな欲求が感情を揺らすことになったのかが見えてこないと、嫌になって止めてしまうということがあります。 また、以前にも述べたように「感情が揺れるきっかけとなる人物」のことを考えることに嫌気がさしてチェックし続けることが出来なくなるというケースも見られます。 これらの問題は、もちろん本人が「もういい」というならそれでいいのでしょうが、しかし、それはいい加減嫌になったから、感情的になって「もういい」とその時に思っただけで、また同じことを繰り返すことは分かりきっているのです。 ですから、感情のチェックをしているにも関わらず、一時の感情に振り回されて「もういいや」と思ったときにこそ、「更にチェックが必要」と考えるといいでしょう。 そして、そもそも「もうこんな感情に振り回されるのは嫌だ」と最初に感じたからこそチェックを始めたのだから、そこを冷静に思い出して、進めたほうがいいのです。 そして、もっと深刻な問題があります。 「揺れる感情を何とかしたい」と強く感じている人ならまだ「感情のチェック」を始めようとすることは、取り敢えず出来ますが、まだ感情の動きを充分に捉え切れず、チェックそのものがうまく出来ない人がいます。 つまり、「感情が動いていた」ということにようやく気がついたような人です。 これは、そもそも疑問を持たずに「そんなものなのかな」と(全てとは言いませんが)何も引っかからず、流して来たような人に起こりがちのようです。 ですからこういったケースでは、気長に「疑問」を自分に投げかけることをお薦めします。 どんなことでも自分に対して質問をしてみるのです。心の中で。 これを続けるだけでも自分がどうしたいのかが少しずつ見えてくると思います。 自分の感情に対して「ん?どうやら自分は彼に怒りを感じているようだ」「何故だと思う?」「さっき彼が言った言葉が原因かな?」「それとも、その時の表情か?いや、意地悪そうな言い方していたから、その言い方に引っかかったんだ」といった感じで、すんなりいくかどうかは分かりませんが、ひとつでも薦められたらOKにしてもいいかも知れません。 この「疑問を投げかける」という方法は、先程の「チェックを途中で止めたくなる」場合にもやってみるといいでしょう。 確かに「感情のチェック」は「揺れる感情を取り除きたい」といった「欲求」があってはじめて進めるのですが、「欲求」があるから簡単に出来る訳ではありません。 というより、「欲求」があると明確に感じているかどうかすら分からなければ、自分に質問すればいいのです。先程のように。 大切なのは、「疑問を持つこと」なのです。 ここから始まるのです。 |



minorin(08/03)
瀧(01/09)
sayuri(01/07)