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●No,41
「ひとり」が好きな人の「自我」とは
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今回は、「自我」について、更に違う視点からも見てみたいと思います。
今までは、形はどうであれ「人と繋がっていたい人」が対象でしたが、次にそうではないタイプを例にお話したいと思います。 「1人でいるのが好きな人」の場合の「自我」が発見されるとどうなるのか? やっぱり同じように「人への興味」が出てくるのか? 答えは「YES」です。 なぜなら、1人が好きだと言っても人とは接しないで生活は出来ません。 「引きこもり」などの場合は、もう既に人との間で起きたことが原因なので、やはり「感情のチェック」で「人に対して自分が感じてきたこと」「人に対して持っていた欲求(或いは要求)」を見ていけば必ず「感情のブレ」の源の「自我」が見えて来る筈です。 ですから、「1人でいるのが好きな人」の場合は、人と接することが厭だと感じたりした場合に感情をチェックするようにすれば、「自我」を発見することはそれ程難しいことではないでしょう。 ちなみに、1人でいるのが好きなタイプに芸術家や研究者などが挙げられると思いますが、もし「人嫌いの芸術家(或いは研究者)」が自我を発見したとしても、1人で創作活動(研究)をするのが好きなのは変わらないでしょうね。 そもそも、1人で何かをしていることが好きな人は、人との時間を楽しむことが出来たとしても、それぞれに「違う喜び」を感じているのですから。 以上、様々な視点から「自我」を見てきましたが、結局のところ「自我」を発見することで、人は「他者との関係」における「自分の在り方」が分るようになるのです。 自我が強い人は、他者を自由にしたいのだけれど、中々そうはならず、寧ろ、逆に色々言われたりして、自由にしたいといった欲求が強いだけに、反って(感情が揺れるといった)苦しみを作ってしまいます。 つまり「他者という存在は必要」なのですが、「自我の欲求」によって縛ろうとするために、他者に受け入れてもらえず苦しむ(感情が揺れる)結果となるのです。 しかし、「自我の殻」が取れて来ると、「感情が揺れるきっかけだった他者という存在」が「興味ある存在」となっていくのです。 それは、「自我の発見」によって「他者との関係」における「自分の在り方」に変化が起きたからに他なりません。 |
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●No,40
「自我」と友達関係について
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前回の予告通りのお話に行く前に・・・
前々回の「自我と自己」の中で「自己」を「他の人たちのことを中心に考えることが出来る自分」と説明しましたが、あくまでも「自我」と比べるために「自己」という表現を用いたのであって、そのような意味が本来あるという訳ではありません。 誤解を招く恐れがあるので、この場をお借りして訂正させて頂きます。 「自己」という言葉で私が伝えたかったのは、「本来の魅力ある個性としての自分」のことです。 それでは前回の予告通り、友達の場合、なぜ「自我」が強く出るのかを述べます。 友達は、お互いに関心があります。(当たり前ですが・・・) そして、「基本的に」話が合います。 仮に趣味が違っていても、共通する「感覚」があるので、好みの違いがあっても問題にはしません。 寧ろ、その違いを面白がったりします。 しかし、趣味程度の当り障りのないことならまだ問題はないのでしょうが、それ以上の、例えば恋愛や進路などの人生に関することなど、軽く考えられない内容の場合どうでしょうか? それは「友達とあなた」の「関係」にもよると思いますが、例えば、意見などを言われたりすると、(仮に相手は軽い気持ちで言ったとしても)カチンと来ることがないでしょうか? (それほど関心のない)他の人であれば受け流せるのに、友達であるが故に「なぜそんなこと言うの?」といった気持ちが沸き起こり、時にはしばらく引きずったりします。 なぜこのようなことが起こるのかというと、自分にとって関心がある人に対して、人は感情が動きやすくなるからです。 もちろん、「関心がそれ程ないのに動くよ」と言う人もいるでしょうが、私が言う「関心のある人」とは「好きな人」とは限りません。 「自分に対して(何らかの)影響を与えている人」のことです。 つまり、仕事場で身近にいる上司や同僚などもその中に入るでしょう。 ですから、私の言う「感情がそれ程動かない(関心のない)相手とは、自分にとって「どうでもいいと思える人」のことです。 そして、特に「好き」な人の場合、感情の動きはより激しくなるでしょう。 この激しいというのは、様々な感情が動くという意味です。 もし嫌いな上司なら殆んどが同じ方向の感情でしょうが、好きな人の場合、一々気になるので感情のブレが激しくなるのです。 それだけ「(好きな方向の)関心」を持っているという訳です。 ですから、友達の場合、自分を楽しくしてくれている間は「最高の存在」なのだが、意見が合わなくなってくると「最悪の存在」になることがあります。 これは、そもそも「友達」と思って接していた相手は、本当の意味での友達ではなく「自分に楽しい時間を提供してくれる存在」だったということなのです。 つまり、「本当の友達」なら感情のブレ(自我)はそれほどないのですが、それだけ感情のブレがあるということは、「本当の友達」ではないということなのです。 そして、それは、そもそも自分自身の「自我」が強いために友達との関係をその程度にしてしまっているということなのです。 ですから、「友達との間」や「恋人間」で揺れ動く感情をチェックすると、非常に「自我」を発見しやすいのです。 そして、先程述べたように「自我」の発見によって、友達や恋人など「身近な人」の場合も、「自我を満たす」のではなく、純粋に相手に対する興味へと移行するので、より相手への思いが深くなります。 |
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●No,39
自我の発見の後に見えてくるもの
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自我の発見の後、成長を決意し、「自我」と真正面から取り組むことで、人は次にどうしたいと思うのでしょう?
それを知る「鍵」は「自我」の中にあるのです。 「自我」とは、他人や環境に対して何かを求めている自分です。 だから、「自我」を発見した時、自分の欲求を明確に掴み、その後も「感情のチェック」で見えてくるのは、「ある心の傾向性」を持った「自我」であり、それは「常にこうして欲しい、ああして欲しい」と、とにかく「欲しい欲しい」といった気持ちでいっぱいの自分を「感情のチェック」の度毎に見せ付けられるという訳です。 こうなると、さすがに人は「もういい加減自分のことはいい!」となります。 ならなければ、まだまだチェックが足りないでしょう。 ちなみに、「もういい加減自分のことはいい!」となるまで「感情のチェック」をしなければならないとは言ってません。 感情のチェックは、揺れる感情をなんとかしたいからするのであって、それはつまり、感情の大元である自我を発見したいからチェックする訳で、こうした「チェックするための欲求」が続いている限り必ずそこまで辿り着く筈なのです。 そして、それまで色々な要求、或いは欲求を持っていた対象である「他人」に対して「心が向く」のです。これも自然にそうなっていきます。 なぜなら、自我から来る欲求は大抵「他人」に対するものであって、その欲求が満たされないが故に感情が揺れる訳で、つまり、「自我」とは言い換えれば「相手をコントロールして自分の自由にしたいと思っている自分」の事であり、その「相手をコントロールしたい」といった欲求そのものが消える事で、逆に「相手の事を知りたい」欲求に変化するからです。 そもそも「人をコントロールしたい」といった欲求は、「人と繋がっていたい」欲求の表れであり、そういう人は自分以外の人が存在して初めて「自我」が出て来るのです。 ですから、こういったタイプの人は結局のところ「人」に関心があるのです。 ただ「『人』が自分のために存在している」のか、それとも「『人』のために自分が存在している」のかの違いが、「人をコントロールしたい」か「人のことを知りたい(興味がある)」の違いとして表れるのです。 だから、「自我」を発見し、自分が如何に人をコントロールしたがっていたかを知るに至って、「もうこんな自分は変わろう」と心から思うことによって、人に対する純粋な興味に変わっていくという訳なのです。 もちろん、突然「あの人のことが知りたい!」なんて、そんな極端に強い欲求が出てきたりはしませんが、明らかに興味が他人に向き始めるのを心の中で確認出来る筈です。それまでは距離を感じていた相手が身近に感じられたりします。 それはつまり、本当の意味で「受け入れた」ことになるのです。 「本当の意味で」というのは、それまでも、それなりに受け入れていたつもりでも、自分と相手の間に明らかな「線」が引かれていた筈です。 どんな「線」なのかは自分の中にある(自我から来る)「欲求」によるので何とも言えませんが、一線を引いていたことに違いはありません。 その「線」がなくなり、本当に受け入れる事が出来たということです。 このように人間は、自分の「幸せ」を守るために、適度な距離を取るもので、それはいたって普通のことなのです。 しかし、その距離が自分のことを考えすぎた結果、誰かとの間に取ったとするならば、それは相手を受け入れているとは言えません。 つまり、自分のことを気にする余り距離を取るのであれば、自我が強くなっているだけです。 逆に、友達の場合は距離が近いので、ここにも「自我の強さ」が表れます。 友達というのは基本的に「波長が合う者同士」である筈です。 そうでなければ友達とは言えません。 では、何故友達の場合「自我が強くなる」のかを次回述べることにます。 |
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●No,38
「自我」と「自己」
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自我は「己を益する事を中心に据えている自分」であり、自己は「自我から離れ、他の人達のためのことを中心に考えることが出来る自分」です。
自我から自己へと移行するためには、まず「自我」を発見し、受け入れる事です。 つまり「いかに自分は自我が強く、他人や環境に対してこれほど多くの要求を心のなかに 持っていたのか」といったことに気付くことです。 そしてそれを発見したからといって、決して恥じなくてもいいのです。 寧ろ、それを発見し受け入れようとしている自分を誇るべきです。 なぜなら、そこには「変わろう!」「成長しよう!」と決意した自分がいるからです。 この決意は、「自我」を受け入れる事で「自然に」出来るものです。 なぜなら、「自我」を発見した時、つまり「自我の最深から出ている欲求(また、個人的感情の大元)」を見つけた時、自分の中にいる「利己的な自分(自我)」を見つけてしまった訳で、それはかなり明確に見えてしまっていて、客観的な目でそんな自分を見ていると「こんな自分を何とか変えたい」といった思いが自然に湧いて来るからなのです。 そして、その後の「感情のチェック」によって、より「自我」と向き合うことになり(というよりも、自我を発見してしまったことで)、以前よりも「自我」を意識せざるを得なくなるのです。 ちなみに、前述した「客観的な目で自分を見る」ことが出来る理由は、自我を発見する過程で、「感情のチェック」を通して理性的に自分を探求しているため、自然と自分を客観視する癖がついてくるのです。 もし、客観的になっていなければ、「感情のチェック」のやり方に問題があると言えるでしょう。 「自我の発見」が「成長する決意」をさせ、更に「自己の探求」になるのです。 そうです。「自我の探求」が終わり、「自己の探求」へと進むのです。 |


minorin(08/03)
瀧(01/09)
sayuri(01/07)