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●No,37
なぜ「感情のチェック」をレッスンのベースにしているのか
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「スタジオTAKIメソード」では、「感情のチェック」をベースに、他のレッスンの課題に取り組んでます。
やり方そのものは「メソード演技」から頂いてはいますが、内容的には全て「感情のチェック」の進み具合が影響するようになっているのです。 では、なぜTAKIメソードのベースが「感情のチェック」なのか? 例えばセンソリーなどで、集中力に問題なく、やり方など方向性にも問題がなくても、ギャラリーを気にしたり講師の評価を気にしたりすることで、意識は集中すべき対象から逸れてしまいます。 そして、その状態とは、つまり、他人の目を気にしている状態とは、他人の自分に対する評価を気にしている訳で、これは「自我」によるものなんです。 なぜなら「みんなはどう感じるだろう」などと、集中することよりも外側に意識がいっているということは、ある種の「恐れ」であり、これは「感情のブレ」以外の何ものでもないからです。 自分は人から良く見られたい! 認めてもらいたい! といった欲求があるからであり。 つまり、「自我」が原因なのです。 そもそも「感情の揺れ」の原因は「自我」の存在なので、その自我を発見することがレッスンで行なわれているという訳です。 そして、日常生活の中で「感情のチェック」が習慣になっていれば、自分の中に潜む「自我」が、つまり感情の源が見えてきて、本来の集中すべき方向に意識を向け易くなるのです。 ですから、充分に「感情のチェック」が行なわれていないと、周囲を気にするという「感情のブレ」が集中の妨げになってしまうのです。 |
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●No,36
「自我」と「個性」
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前々回、私の主宰する「スタジオTAKI」では、一言で言うと「自我を取り去る」レッスンを行なっていると言いました。
しかし、「自我を取り去る」という表現を使うと、芸術関係の人達は、もしかすると嫌がるかも知れません。 何故かというと、「自我があるからこそ『個性の面白さ』があるんじゃないか」と思っているのではないかと感じるからです。 役者を目指そうと思っている人や、面白い役者が沢山出てくるといいな、などと考えている演劇や映画好きの人達にしてみれば、少々「自我」が強くったって、それはそれで面白いじゃないか、と考えているのでしょう。 しかし、その「面白さ」とは、実に無責任な考え方なのです。 私は以前、「好き・嫌い」と「良し・悪し」は区別して考えなくてはならないとお話しました。 この「面白い」といった考え方は、まさに「好み」から来る考え方なのです。 つまり「感情的」であって、「理性的」ではないのです。 確かに、ただ見物する側からすれば、とにかく何か面白いものであればいいんだ、と考えるかも知れません。 とにかく、刺激が欲しいという人もいるでしょう。 しかし! 私の考える芸術とは健全であるべきなのです。 「健全」という言葉を聞いて、 面白くねー! と思った人は、「何故そう思ったか」を考えてみて下さい。 そして逆に「何が面白い」と思っているかを考えてみて下さい。 恐らく「建設的ではない」考え方があるのではないでしょうか? あるいは屈折した考え方があるかも知れません。 ちなみに私は、決して尊敬はしていないが、好きな俳優がいます。 そして、何故その俳優のことが好きか、面白いと思っているかというと、繊細な神経を持っているが故に、わがままなところです。 もし、私が役者として共演する話があったとしたら、あまり嬉しくはないですね。 つまり、ただ見ているだけの存在だと「面白い」に限るんです。 しかし、一緒に何かを創り上げようと思っている時に、しっかりやってくれるかどうか分らないような、プロ意識があるかどうかも分らない人とは、正直言って組みたくないですよね。 そうなんです。 「自我」は、ある意味面白いかもしれませんが、本当に大きな仕事をする時、特に多くの人に影響を与えるような仕事をする時には、限りなくなくしていく努力が必要だと思います。 では、「個性」とはいったい何なのか? と反撃したくなるかも知れません。 私の考える「個性」とは「自我」がなく、しかし「個性」としての「色」はついていることです。 例えるなら、色はついているが、透明なフィルムのようなものです。 だから、「個性」であれば、色がついていてもフィルムの向こうの景色は見えますが、「自我」だと、べったりと色がついてしまって、向こうの景色が見えなくなってしまうのです。 そして、「自分の色しか見せない」のです。 自己主張・・・それだけです。 これが「自我」なのです。 決して「個性」ではありません。 より健全な「個性」を目指すためにも「感情のチェック」で「自我」の発見をし、個人的感情の源でもある「自我」から脱したいものです。 |
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●No,35
「自我」と「感情」の関係について
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今まで「感情」について色々と語ってきましたが、「自我」との関係について突っ込んだ話はして来ませんでした。
実は「感情」と「自我」とは密接な関係があるのです。 では、聞き慣れない人の為に、というか、言葉としては聞いていても、「自我」を感じることに関してピンと来ない人の為にお話して置きたいと思います。 以前、私は「自我」について、「自分のためだけの欲求を満足させたがっている自分」だといいました。 ちなみに「自我」のことを「エゴ(ego)」とラテン語のまま使うとニュアンスが伝わりやすいのではないかと思います。 普段の生活の中で、感情的になっている時とはどんな時でしょうか? 挙げれば切りはないでしょうが、 例えば母親同士の会話の中で、子供の成績の自慢をしている母親がいた場合、 その子供が自分の子供と違う年齢であれば大して気持ちは揺れないのでしょうが、 もし自分の子供の同級生で、しかも自分の子供はそれ程成績も良くないとしたら、 どんな気持ちでしょうか? 心は穏やかでいられるでしょうか? もちろん、激しく感情が揺れることはないかも知れませんが、全く気にならないでしょうか? 「うちの子はうちの子だから」と思えれば感情も揺れないでしょう。 しかし、少しでも引っかかるようであれば、それは間違いなく母親としての「自我(エゴ)」なのです。 つまり、自分の子供は成績優秀であることが母親としてのプライドを満足させてくれるからです。 だからこそ、プライドを満たしてくれるどころか、傷付けられたと感じた場合(実際はそうではなかったとしても)感情は揺れ動きます。 そして、その感情が動く原因は「自我」があるからです。 つまり、「母親としての自分はこうありたい!」という強い「欲求」があるからです。 或いは、仕事場で新しく何かを教えてもらうような状況で、 教える人が、相手によって態度を変えたり、 また覚えられていないことなどを「まだ覚えてないの?」とか、 時には「何やってんだ!」などと、いきなり怒鳴る人もいると思いますが、 例えそんな状況でも、これらのような態度をとられた時に怒りや悲しみなどの感情が動いた時も、 実は「自我」が原因なのです。 え? と思われるかも知れません。 今お話したような状況では、明らかにあちら側に問題があると思われるからです。 それは、勿論その通りです。 ・・・客観的事実としては。 しかし、今私が話しているのは、感情と自我の関係についてなのです。 つまり、感情が揺れる原因が何なのかという話であって、誰が悪いなどといった話ではありません。 あくまでも「感情のチェック」をテーマにしたお話なので、「取り出してしまいたい感情」が、そもそもどういった原因によって引き出されてしまっているのかを明らかにしたいだけなのです。 ですから、以前もお話しましたように、自分の感情が揺れるのは自分の何かが原因であるので、それが何なのかを見つければいい訳なのです。 そして、その原因こそが「自分を認めてもらいたい」だとか「自分を気に入って欲しい」などといった欲求を持っている自分、つまり「自我」なのだと言いたいのです。 自我が強い人は、それだけ(人に)求める気持ちが強いのだということです。 逆に、求める気持ちが強い人のことを自我が強いと言っているのです。 あの人にはこうしてもらいたい。 この人には、自分をこんな風に気にしてもらいたい。 といった感じで、求める気持ち(欲求)が強くあるので、それが満たされなかった時に感情が揺れ動くのです。 ちなみに、人間の半分以上が、人生をトータルでみた場合、「自我」のある人生なのではないかと思います。 でなければ、なぜ争いが起こるのでしょうか? それは自我と自我のぶつかり合いが原因ではないでしょうか? 「感情のチェック」をお薦め致します。 次回は、「自我」と「個性」について述べたいと思います。 |
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●No,34
「自我」を取り去る必要性について
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「自我」という言葉がどれほど一般の人たちの間で使われているかは分りませんが、私の考える自我とは、一言で言うと「自分のためだけの欲求を満足させたがっている自分」のことです。
「スタジオTAKIメソード」のレッスンを一言で表すなら、 「自我を取り去る」レッスンだと言えるでしょう。 例えば「センソリー(五感の記憶)」というレッスンがあります。 このレッスンは、確かに「五感」を鍛え、想像の世界をリアルに感じるためのものではあります。 しかし!! それは、分りやすい説明をしているに過ぎません。 言い換えるならば、「意識で想像の世界を作り出すためのレッスン」なのです。 つまり、「自分の意識」を自由自在に操れるようになるための訓練だということなのです。 ですから、非常にシンプルなレッスンではあります。 しかし、シンプルであるが故に(かどうかは分りませんが)、「センソリー」のレッスンがスムーズに進行しない時があるようです。 そういう時は、必ず余計なことを考えたり、或いは、特に悩みがある訳ではないけれど、意識が集中すべき対象に向かわず、気が散ってしまうという状態になっています。 実は、これらの原因の殆んどは「自我」なのです。 だからこそ、集中出来なかった理由を見つけることで、自分の心の中にある「欲求」が見えて来て、「自分がいったい何を考えている人間なのか」が分るようになるのです。 |
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●No,33
改めて「感情とは何か」について考える
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久し振りの記事ですね。
今日は、「感情とは何か」という、まるで最初に戻ったかのようなタイトルをつけてしまいました。 なぜかというと 今までの「感情について」の内容では、まだ充分に理解出来ないのではないかと感じたからです。 理解しているつもりでも、本当には中々実感として伝わり難いと思うのです。 人は大抵「感情」というと「喜怒哀楽」と考え、そうじゃないにしても、微妙にブレた感覚や、モヤッとした感覚までも「感情」とは捉えてはいないようなのです。 少なくとも、私にとって「感情」とは「心が安定していない原因のこと」を指すので、「心の中から追い出したい存在」ということになるのです。 だからこそ、感情をチェックするのです! では、「とにかく不快な心の状態から脱したい」という欲求を持っているのを前提とします。 あなたは、なぜ「不快」になったと思いますか? 少なくとも「感情のチェック」は、直接原因が「相手の言葉」だとしても、つまり、たとえ相手が最低なことを言ったとしても、「自分の感情が動いたことの原因」は自分にあるのだということを前提としているのです。 なぜなら 自分の感情が動いたのは、きっかけとしては相手の言葉だったりするかも知れませんが、「不快に感じた」と思い、更にその状態(感情が揺れている状態)から脱したいと思っているのは他ならぬ自分だからです。 つまり、自分の何らかの「考え方」や「捉え方」の習慣、つまり「心の傾向性」が、感情が動く原因となっているという訳です。 であるのなら、まずは「心の傾向性」を見つめてみましょう。 と言っても、そう簡単には見つめられるものではありません。 なので、ちょっと自分の感情が動いた時を思い出して欲しいのです。 感情が揺れ動いた時、「自分を守りたい」とか「自分を認めてもらいたい」とか「自分を誤解しないで欲しい」などのように 「自我」が強くなってはいないでしょうか? 恐らく、そうだと思います。 「自分を理解して欲しい」といった、相手に対して何らかの「自己主張」が始まり、それが充分に満たされなかった時に、感情は揺れ動くのです。 逆に、真に「無我」で「無私」な人であれば、そういった個人的なことで感情は揺れたりはしないはずです。 「自我」があるから、つまり、「自分の何かの欲求」が満たされないからこそ「感情」が揺れ動くのです。 そういう個人的な理由ではなく、感情が動く時は、決してその状態を「不快」とは感じない筈なのです。 例えば「革命」の時などがそうです。 いくら圧制に苦しんでいるとしても、体制を変えようとする「怒りのエネルギー」があったとしても、それは正当であれば、というか、そう感じていれば、その「感情そのもの」を「不快」とは感じないのです。 自分たちの感じていることが「正しい」と思っているから。 こういった場合は、チェックする必要はないでしょう。 同じ感情でも、「私的」ではなく「公的」な理由から出ているから。 つまり、「私的な感情」は「不快」であるが、「公的な感情」は、その感情自体は「不快でない」ということになります。 |


minorin(08/03)
瀧(01/09)
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