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●No,55
今、振り返る2年前の舞台・・・そして告白
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今回は「私事」なので、そのつもりでお読み下さい。
決して「感情のチェック」の論文のようなものではありません。 一昨年の9月に「法王庁の避妊法」という舞台に役者として参加しました。 私にとって舞台に立つことは3年振り。 主役は・・・「初」でした。 嬉しい反面、果たしてこんな大役・・・大丈夫か? といった気持ちで稽古の初日まではいました。 私なりに役作りのためのリサーチなどはやっていましたが、セリフはまったく覚えてませんでした。 私としては、リハーサルに入る時点ではセリフを完璧に入れておく予定でいたのです。 ちなみに演出家にはセリフを(覚えるために)覚えないようにしてくれとは言われていたのです。 ですから、覚えるためではなく覚えてしまったと結果的になるほどに読み込む予定だったのです。 しかし・・・私はアンソニー・ホプキンスではありませんでした。 彼のように200回以上セリフを読むなんて到底出来ません。 というか、私はそういった入り方をするタイプではなかったのでしょう。 ・・・ということにしておきましょう! むしろ・・・セリフを覚えるのが億劫になっていたところなどは、マーロン・ブランドですね。 そして8月の初顔合わせの日、私は時間ぎりぎりに稽古場入りをしました。 当然のことながら、既に他のメンバーは全員いました。 プロデューサーとディレクター、そしてあと一人を除く7人は文字通り初顔合わせです。 意外と緊張していない自分が不思議だった。 そしてその日は色々とゲームをしたりしたが、最後に本読みをした。 1場が終わったところで、休憩に入った。 すると、演出家が席を立ち部屋を出て行こうとする時に、私にこう言ったのです。 「瀧さん、もっと(セリフを言っている)相手(の目)を見て下さいね」(たぶんこんな言葉だった)と。 私は(今の自分からすればとんでもない事に)「ムカッとした」 「こっちはセリフが入ってないんだよ。相手を見てたら、どこ読んでたか分かんなくなっちまうじゃねーか」 てな感じのことを思ってました。 けど、演出家に返した言葉は 「はい!」 ま、2年前の私のレベルってのはこの程度だったのです。 「感情のチェック」はまだまだ深まっていませんでしたね。 もちろん今の自分から見てということですが・・・。 タイトルの「告白」というのはことことだったのです。 8月から約一月半のリハーサルの間、問題がなかったというと嘘になりますね。 やはり、当時の私は「未熟者」でした。 ダメ出しをされると「ああ、俺ってまだまだなんだ・・・」などと落ち込みそうになり、「いやいやそんなことはない」と思うように努力し、結局「飲んで憂さ晴らし」という日もありました。 あの時一緒に飲んだ「君達」、「元気?」 いや、そうじゃなくて・・・「ごめんね」「ちらっとでも愚痴を言ってしまって」 と言っても覚えてないかな・・・。 今の私としては、あの時の演技に対して 「正直、不満です!」 所詮「未熟者」の演技は「未熟な演技」でしかないのです。 そういう意味では、2年前よりは「自信」はあります。 ・・・かなり。 でも、皮肉なことに役者をやる機会自体、私自身が探す気がしないんです。 今、一番興味を引かれるのは「指導」です。 しかし、役者の「面白さ」は一生忘れる事はありません。 でなければ指導は出来ませんから。 そして、今までの役者人生の中で一番誇れるのは 「法王庁の避妊法」です。 当時の自分が「未熟」だったからこそ色々と学ぶ事が出来、確かにあの2ヶ月弱で、成長することが出来たと思うのです。 指導する立場としても、色々と試す事が出来、大変役に立ちました。 本当にありがたい体験でした。 あの年最高の出来事・・・でした。 そして、その時の演出家が今年の12月に2年振りに日本で舞台をやります。 タイトルは「12人」です。 私は、彼女(演出家)の舞台は是非観に行って頂きたいなと思ってます。 彼女の素晴らしい演出振りを知っているからこそ言えることなんです。 今年のクリスマスは「Plug-In」の舞台「12人」を! と言っても、私が仕事で行けないかも知れない状況なのです。 ・・・もしかしたら。 行けなかったら・・・ごめんね。 |
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●No,54
「無差別殺人犯」にみる共通性
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また無差別殺人事件が起きました。
以前「秋葉原通り魔事件」のことに触れたことがありましたが、今回も私には似た印象を犯人から受けました。 彼らのことを一言で言うと「甘ったれ」です。 あ、すみません「甘ったれ」の後に「ガキ」を入れ忘れました。m( _ _ )m 「甘ったれたガキ」・・・・です。 親に相談に乗ってもらえなかった? だからって、罪もないまったく無関係な人を殺してまで、親の気を引きたいのか? 「いったい幾つなの?」と聞きたくなってしまいます。 確かに多くの人たちが、というか全ての人がそうだと思うのですが、生まれてから大人になるまでの間に「愛」を欲して来ている筈です。 そして、親ではなくても、誰かしらからは必ずと言っていいほど「愛」を貰って来たでしょう。 どんな形にせよ、誰かからは「愛を貰って来た記憶」があるのです。 「いや、わたしには全くそんな記憶はない」と仰る人がいたなら申し上げます。 「では、あなたは、たったの一度も感謝をしたこともなく生きて来たのですね」と。 だってそうでしょ? 今あるあなたは何故存在できているのですか? 自分で生きているとでも言いたいのですか? 何かを食べるためにはお金が必要です。そのためには職がなければなりません。それを提供している人に感謝もないのですか? それともお互い様だからということですか? もしそうなら、「働いてやっている」といった傲慢な気持ちが少なくともありますね。 いや、百歩譲って、一人で生きているということを認めるとしても、まさか一人で育ったなんてアホなことは言わないですよね? 私は何も薄っぺらな道徳論を述べようとしているわけではありません。 ほんの小さなことでも「与えてもらった喜び」を「発見」出来た人は、それだけ「感謝の心」で生きることが出来て、その分「幸福感」が強い筈なんです。 「感情のチェック」をし続けていると、自分の自我(エゴ)の強さに嫌気がさして来ます。 そして同時に、周りの人たちが暖かく見えてくることがよくあります。 もちろん、これは自我を通して周囲の人をフィルターを掛けて見ていたということが原因だからなのです。 彼らがもし、ほんのひとつの感謝でも出来ていたら、あのような悲惨なことにはならなかったかもしれません。 しかし、ここで犯人の彼らだけの話では終わらせてはいけません。 「バカな親たち」です。 確かに事件を起こしたのは子供であって、事件の責任は「もういい年をした子供」にあります。 しかし。 それだけではかたずけられないでしょう! そもそも彼らの親は、「子供を愛してあげていたのか?」 子供の頃に充分に親からの愛を受けずに育った人は、基本的に「愛すること」が下手です。 というか、恐らくどうしていいか分からないのでしょう。 「愛された」という「記憶」がないから。 親は「愛してあげた」と言い訳するかもしれませんが・・・。 本当に愛してあげていたのなら、子供は「感じていた筈」です。 厳しさも愛の表現としてはありますが、厳しいだけでは愛ではありません。 しかも、小さな子供であれば、厳しさなど通用する筈がありません。 先日、池袋駅のホームで小さな女の子(たぶん3〜4歳位)が24〜5歳位の母親に、もの凄く怒鳴られているのを見かけました。 その母親は子供に「ついて来ないで!ママについて来ないでね!」と、とてもしつこくヒステリックに言っていたのです。もちろん子供は泣いてました。 見ていてホントに情けなくなりました。 「あんた親でしょ?子供と同じ土俵に上がって何むきになっているの?」と。 今は子供の育て方を知らない親が多いと言われています。 それは、学校任せにしていた親に育てられた子供が親になっているからだという話を聞いたことがあります。 原因のひとつとしては、それもあるでしょう。 ま、何にせよ、子供に関心のない、また、家族という「小さな社会」に興味を持たず、仮に持ったとしても、自分の所有物かなにかのように思っている親が存在する限り、悲惨な事件が皆無になることはないでしょう。 自分の子を「出来の悪い子供」と嘆く前に 自分を「出来の悪い親」であることをまず反省し、我が子から「貰ったもの」はなかったかを考え、ひとつでも多く発見して欲しいものです。 我が子が生まれた時、幸せに包まれませんでしたか? それを思い出すことが出来たなら、既にあなたは感謝を知ったことになるでしょう。 |
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●No,53
「感情のチェック」で陥りがちな勘違い(22日加筆しました)
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前回、「感情のチェック」で、人によっては陥ることがある「錯覚」について述べましたが、今回は私自身も経験した「感情のチェック」が何度かうまくいく内に陥ったことのある「勘違い」について述べていきます。
そもそも「感情のチェック」をするということは、揺れる感情を放って置きたくないと思っているので、「感情的になっている状態」が嫌いな筈です。 そして、出来るだけ早く「感情が安定して欲しい」と願っているのです。 だからこそチェックを続ける習慣を身に付けることが大切であるにも関わらず、「感情のチェック」が何度かうまくいくと、次第に「感情的にならないようにしたい」といった気持ちが強くなり、反って感情が揺れるような状況に陥った時、或いは陥りそうな時に過敏に反応してしまうことがあるのです。 「感情のチェック」をし続けることで、いつかは必ず「安定」を得ることは出来ます。 だからこそ、寧ろ「感情的な出来事」があることは喜ぶべきことなのです。 なぜか? それは、「感情的になる」こと自体の中に、自分の「自我(による欲求)」を発見することになる訳であり、これはとても時間をかけて続けていくことなのです。 この時間をかけて「感情のチェック」を習慣にしていくことで人は成長するのです。 人が成長するということは、階段を一段一段確実にあがっていくことであり、成長という名の階段を上がることを噛締めながら成長の喜びを感じるものなのです。 ですから、「むやみに」感情の安定を求める必要はないのです。 「感情のチェック」をし続けてさえいれば、必ず感情は安定するからです。 とにかく「安定させたい」といった「感情の安定」が「欲しくて欲しくてたまらない」状態は理解できますが、だからこそ「感情的な出来事」を淡々と受け止めて頂きたいのです。 でなければ、「感情のチェック」そのものが出来なくなってしまいます。 「感情のチェック」は、日常の「楽しみ」になる位にまで習慣化できます。 だから、「感情のチェック」をしなくてすむようになりたいなどとは考えてはいけません。 ていうか、有り得ません。 「感情のチェック」をしない日なんて・・・。 「感情のチェック」ほど楽しいことはないんですよ。 積極的に、「感情のチェック」という習慣を楽しんでいきましょう!! |
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●No,51
「感情のチェック」で陥る錯覚
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「感情のチェック」を始めると、何度か「感情が治まる」といった体験を誰もがします。
ま、当然と言えば当然ですが・・・。 すると、何かの「資格」でも取ったような気持ちになり、「特別な人間」にでもなったかのように感じることがあります。 と言っても誰もがそうなる訳ではありませんが・・・。 確かに、「感情のチェック」によって、揺れる自分の感情を静めるという経験は、単に感情を抑えることと違って、「感情そのもの」の原因を発見することにより、「結果として」静まっていくので、まるで「湯上りのような気分」のようにサッパリとした気持ちになります。 これは1度でも経験した人なら分かります。 ホントに「湯上り気分」なんです。 しかし、こんな人間としてはあたりまえのことが何回か出来ただけで、自分が今までと違って「凄く」なったような錯覚に陥るのは、それこそ「感情のチェック」で見えてくる「自我」が原因なのです。 つまり、成長した自分を客観的に見れなくなってきた証拠だと言っても過言ではないでしょう。 自分を客観視できなくなってきたということは、つまり「感情のチェック」はストップしている筈です。 「感情のチェック」は、続けていく内に自分の心の奥にあって、今までは気付けなかった「欲求」(或いは「自我」による「欲求」)が見えてくるのですが、「成長した自分」を冷静に見つめ、素直に誉めてあげるなら問題はないでしょうが、「慢心」した場合は、「冷静さを欠いた」状態なので、客観視を前提とした「感情のチェック」が進められる筈がありません。 つまり、「感情のチェック」が出来てる自分を凄いと思った時点で、今度は「プラスの感情のチェック」をすればいい訳です。 こんな風に続けていく内に自然と「感情のチェック」は習慣となる筈です。 |
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●No,50
人間関係に於ける「距離」の取り方
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前回、「距離」を取ることの大切さについて触れましたが、今回はもう少し突っ込んだ話をしたいと思います。
人間同士が調和していくためには、適度な「距離」が必要です。 しかし、中には「距離」を無視して土足でズカズカ上がってくる人もいます。 「親しき仲にも礼儀あり」という言葉がありますが、やはり人間関係のバランスを適度に保つには「距離感」を持つことです。 そもそも「距離感」を持つことが必要だと述べている理由は、人間の一人一人が、「自分という個性」を知り、他の人たちと調和し、平和な社会を創るために重要だからです。 かと言って、決して「みんなで仲良しクラブ」のような「同じような価値観」を持っているかのような社会を望んでいるわけではありません。 あくまでも「自分という個性」は重要なのです。 私の言う「自分という個性」とは、「自我から来る欲求」を知っている客観視出来る自分のことであり、それはつまり「感情の揺れ」の源である「欲求」を知っていて、その欲求を出している「自我」とは、自分を主張したり、自分を守りたいと感じている自分のことを指しているのです。 しかし、「自我から来る欲求」が原因で感情が揺れることに充分対応できていない(つまり、感情のチェックが出来ていない)人たちは、まだまだ「自分」という個性のことを充分理解出来ていないので、どうしても人間関係でぶつかり合ってしまいます。 これは、「自我(からの欲求)」が理解出来ていないからです。 つまり、自己主張であり、客観視出来ていない表面的な自分の意見をお互いに押し付けているからぶつかり合うのです。 この人間関係での問題の中でも、人とぶつかって自分が傷付きたくないが故に、他の人と意見を合わせてしまう場合があります。 これも結局は、「自分を守りたい」という(自我から来る)欲求が働いている訳で、それに気付かず「自分は相手に合わせてあげている」といった勘違いをしているケースもあります。 或いは、この逆で、自分が傷付きたくないから、攻撃するといったタイプの人もいます。 これはこれでやはり、自分を守っていることに気付かず、「自分が正しいから強く言っている」程度にしか思っていない場合があるのです。 これらのケースでも分かるように、人間関係に於いて、プラスの感情であろうとマイナスの感情であろうと、「感情の動き」が見られた場合は必ずチェックし、「自分の中にどんな欲求があったから感情が動いたのか」を発見することにより、「自分が周りの人たちに対して何を求めているのか」を理解できるようになります。 そして、発見できた「自我から来る欲求」を持っている自分を客観視することによって、自然と「周囲の人との距離の取り方」が見えてくるのです。 何故なら、自分を客観視出来るということは、自分と他者を客観視出来ていることになり、周囲にいる人たちと自分の関係を客観視しているということだからです。 それはつまり、自分の周囲にいる一人一人が、自分にとってどういった存在なのかが分かるようになるからということなのです。 |




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